そんなこんなで、隣で僕にちょっかいを出してくるマウロと共に、僕は楕円形の輪に加わって新たな上司となる指揮官の話を聞くことになった。

 

「ようこそ、ウエストハム・ユナイテッドへ。世界に飢えた子どもたち」。

 

 まるでカバが大きな口を空けて何かを飲み込むように、ゆっくりとした動きで初老のイングランド人が口を開き、初級のリスニングのCDがやっとの僕でもなんとか聞き取れるレベルで英語を紡ぐ。今時動物園のカバでも、英語を流暢に喋るくらいの芸が出来なければやっていけないのだろうか、まるでモダンフットボールにおけるレギュラー争いだ、なんて僕はくだらないことを狭い心の中で呟いた。今季からチームに新加入する選手は数人。マウロと僕はアルゼンチン代表経験者だが、髭の生えたポルトガル人MFや、身体能力に定評のあるエクアドル人FWもいる。まるで世界中から野菜を集めたカラフルな八百屋のように、チームには様々な色と形の選手たちが揃っていた。これを見て、イングランドのチームだ、と言って誰が信じるだろうか。選手によっては小難しい顔で、僕のように嫌そうに仕事をしている通訳を介して話を聞いている選手もいる。

 

「知ってのとおり、我々は哲学の下にフットボールをする」

 

 彼はそう言うと、まるで何か面白い種類の虫でも見るように一瞬僕を見て、かすかな微笑を口もとに浮かべた。風のない日に静かに立ちのぼる小さな煙のような微笑みだった。その後にキャプテンのケビンという名の男ー僕が聞き間違えていなければーが短い挨拶をしたのだが、残念なことに僕のリスニング能力ではイマイチ聞き取れなかった。なんとなく正直そうな男だ、とだけ僕は思った。

 

「ビッグサムには、108のロングボール戦術があるらしい」という眉唾な噂が僕の耳に飛び込んだのは、新監督と新しいチームメイトたちとの通過儀礼的で、形式的な対面を終わらせた日の夜、慣れない練習場を後にする時だった。相変わらずブエノスアイレスの陽気なスリのように僕の背後にあっさりと回り込んだ彼は、まるで世界の秘密を耳打ちするように消え入りそうな声で僕の耳にその噂を落としていった。

 

「それ、新しいジョークか何か?ウィットが足りないんじゃないかな」

 

「え?何言ってんだよレオ。俺はシリアスでマジだぜ」

 

 覚えたての英語と、僕らの言語を混ぜたせいで完全に意味が被っている単語を続けながら、マウロは太陽の下に咲き誇る向日葵のようにニッコリと笑った。純粋に邪悪を詰め込んだような、悪戯を仕掛ける前の五歳児のような笑顔だった。僕の親戚にも、あんな顔をして悪さをする男の子がいたものだ。今になって考えてみれば、そもそもカバみたいな男がビッグ・サムという異名だと知ったのもその時だったので、僕はとんちんかんな答えを返してしまったのだった。そんな僕を見ても、イマイチ状況を察することが出来ないマウロは自分勝手に続ける。

 

「ビッグサム、つまりうちの監督は、クソみたいなロングボール信者なんだよ。レオ、お前ヘディングしたことあるか?」

 

 僕は何かに打たれたようにしばらくその場に茫然と立ち尽くしていた。まるでビニール・ラップにくるまれて冷蔵庫に放りこまれそのままドアを閉められてしまった魚のような冷ややかな無力感が私を襲った。ロングボール。その言葉が僕の中をくるくると回るので、無作為に検索窓に突っ込んではみたものの、僕の中には一致する単語がないらしかった。南米人らしく、くだらない冗談や嘘を言って僕をからかうネイマールとダニエウ・アウベスがバルセロナ時代は鬱陶しくて仕方なかったのだが、今ばかりは彼らが適当な茂みから幽霊のようにふらっと現れて「嘘だよ」と言ってくれないだろうか、と僕は心の底から祈った。

 

 かつてのチームメイトであるカメルーンから来たFW、エトーが話してくれたことがある。あれはバルセロナのロッカールームで、多分2008年から2009年くらいのことだったかなと思う。彼は色々と問題を起こす、そんなFWだったが、僕を弟のように可愛がってくれた。その際彼は、こんな風に言ったのだ。

 

「僕はとても不完全な人間なんだ。不完全だししょっちゅう失敗する。でも学ぶ。二度と同じ間違いはしないように決心する。それでも二度同じ間違いをすることはすくなからずある。どうしてだろう?簡単だ。何故なら僕が馬鹿で不完全だからだ。そういう時にはやはり少し自己嫌悪になる。そして三度は同じ間違いを犯すまいと決心する。少しずつ向上する。少しずつだけれど、それでも向上は向上だ。」

 

 あの時のエトーに、純粋に聞いてみたい。間違いを犯して、戻れないときはどうしたらいいのだろう。僕は間違いを犯し、間違いを犯し、間違いを犯してここまで来た。エトーと僕の違いは「間違いを犯さないように」なんてことを考える頃にはもう谷底にごろごろと転がり落ちていたことだ。失礼な話だが、僕はエトーより賢いと自分では思っていた。それなのにこの様だ。ロングボール。ロンドンでロングボール。
 

 「やれやれ」と僕は立ち上がりながら言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせになりつつある。
 

 「これで1日が終り、しかも我々はどこにも辿りついていない」

 

 マウロは、突然玩具を奪われた少女のような、不思議そうな顔で僕を見ていた。